2016年6月3日金曜日

六月。

初夏よりも、夏を思わせる五月の半ばを過ぎ、
いよいよ六月を迎えました。
今年はだんだんと夏に移行していくのでしょうか。

さて、毎月発行している教会報があります。
月末月初はパソコンとにらめっこなのですが。

現在使用しているパソコンをWindows10にバージョンアップさせたところ…
内蔵のカードリーダーがSDカードを認識しなくなりました。
画像が読み込めないわけです。
インターネットで調べると似たようなことを質問している方も多いようです。
外付けカードリーダーを買わなくてはかなぁ…と感じております。
そうとして、これまでパソコンのお世話になって、
教会報が作成できていたことを、前提としていかなくてはいけませんです。

さてさて、1年の折り返しとなる六月。
上半年の御礼を重ねてまいりたいと願っております。

2016年5月3日火曜日

ゴールデンウィーク。

熊本の被災地では復興に向けて、
ボランティア活動も始まりました。
このゴールデンウィークを利用して、という方も多いと思います。

また、自分へのご褒美に、家族に会いに、仲間と共に。
それぞれ予定を立ててのこともあるでしょう。

九州全体の宿泊予約のキャンセルが50万件以上とのこと。
やむを得ない部分もあります。

また、自粛ということについて、いろいろと議論もありました。
私も考えさせられます。
楽しんでいてよいのだろうかという気持ちになります。


被災地への祈りを込めて、
今目の前にあることに真摯に取り組ませていただく。

それが先ず自分にできることであるかな、と感じます。
自分として、整えていく。
しっかり祈れるように、支援できるように。

先ず自分にできることを、身近なところから
取り組ませていただきたいと思っています。

2016年4月16日土曜日

熊本地震。

平成28年熊本地震で被災された方々に、心よりご祈念申し上げます。



亡くなられた方々の御霊のお道立てを

被災された方々の心身の健康を

救命救助に、復旧作業にあたる方々の安全を


北東へ延びる震源地が収まりますように

大雨による二次災害の影響が出ませんように

支援物資が行き渡りますように

2016年2月14日日曜日

マネジメント。

さて、私は最近「六秒」というものを意識しています。

あるテレビ番組で元サッカー選手の前園さんが
「アンガーマネジメント」というものを紹介されたことがありました。
アンガーは怒りを指します。
その基本的な考えとして「怒りは最初の六秒間」というものがあります。
怒りが芽生えたとしても、六秒間我慢すると落ち着いてくるものらしいです。
ですので、カチンと来た時に、その六秒間をどう過ごすかに目を向けます。
「今、怒りが出ている。六秒間様子を見てみよう」と
冷静に自分を眺めてみる―事象を分析してみると、
また別の思考が生まれてくるようです。

人間は感情の動物と言われていますし、
喜怒哀楽は人間に必要な感情です。
怒りや哀しみはなるべく避けたいものですが、
同時に人間らしさを形成するものでもあります。
感情が動くのはしょうがないことです。

アンガーマネジメントでは、怒りは怒りとして、
その後をどう対処するかに目を向けています。
その怒りに自分が出会った時での六秒間。

私はこの「六秒」を「神様に心を向ける時間としてみたらどうだろうか」
というふうに捉えて、現在進行形で取り組んでいて、実験の真っ最中です。

 衝動に駆られることがあります。そんな時こそ、より神様を意識する。
「神様から六秒間の猶予をいただいているんだ」と考える。
先ず、心の中に神様の働きを受け取ろうとする前段階での態勢を考える。
そしてバランスが崩れているわけですから、次に体勢づくりをする。
物事への初動として二段階、二段構えが必要ではないかと思います。

2016年2月2日火曜日

大きく。

最近ある言葉を知りました。

大根はいびきをかいて育ち、白菜はあぐらをかいて育つ

この言葉はいつ、誰が言い出したかは分かってはいません。

ただ、著名な詩人である高村光太郎さんの
『ブランデンブルク』という詩にある

「三畝のはたけに草は生えても
 大根はいびきをかいて育ち
 葱白菜に日はけむり
 権現南蛮の実が赤い。

という部分が変化してのもの、みたいです。

ちなみにブランデンブルクはバッハの協奏曲を指します。
高村光太郎さんがブランデンブルク協奏曲を聴く中で、
情景を思い浮かべての詩です。

畑に草は生えても、大根はいびきをかいて、白菜はあぐらをかいて育っていく。

雑念に苛まれますが、願い手、祈り手として、
どこを捉えさせていただくべきか。
事柄を通して大きく育つもの―見逃さないようにしていきたいものです。

2016年1月4日月曜日

修正ペン。

 最近は便利な文房具が増えました。
とりわけ間違えた時に使用する修正テープはまっすぐ引けますし、
すぐに上から書けるので重宝しています。
もちろん、細かな修正にはペン先の細い修正ペンが便利です。
間違えた部分によって使い分けをしています。

 新春に見たテレビ番組で、
ある漫画家が修正ペンを巧みに使って漫画を完成させているシーンがありました。
その漫画家さん曰く、「修正ペンで描いている部分もある」と。
漫画は鉛筆で下書きなどをして、ペン入れをして完成となります。
ペン入れとは、インクをGペンなどで描き入れる作業です。
ここで作品に命を吹き込むことになります。
しかしながら、その漫画家さんは修正ペンの凸凹や滲みをも利用して
線や円を描いていくそうです。
私は目からウロコが落ちる思いでした。
それは、修正する箇所というのは間違えた部分であり、
隠したいことでもあると感じていたからです。
修正ペンで描くという発想はありませんでした。

 すると、これまでの自分がボールペンと修正ペンとで扱いを
別にしてしまっていたことに気づきました。
修正ペンを使う時は「あぁ、また間違えた」と、
イライラと共に使うことが多く、
忙しい時などは使った後の扱いもヒドイもので(苦笑)
そんなモノに対しての自分の気持ちに気づかされました。
修正ペン自身は常におそるおそる登場しているのではないか―
なんてことも頭の中でちらつきました。

 使い手次第で意味合いが変わってきます。
漫画家が描き直してきた原稿の凸凹。
そこから出会うべき直線や曲線は、ひと味違ったものになります。
修正箇所が乾かずにできた滲みも武器になるのです。
もちろん、原稿に描き入れる前の準備や努力があってのことですが、
行き着いた間違えはただの間違えではなく、
そこからの閃きからアイデアが生まれてくることもあります。

 間違えたことを単に「教訓」ということでだけでなく、
その奥行きや広がりを見ていきたい―
そう感じる、今年の幕開けです。

語弊があるかも知れませんが、
信心の使い手としては、おかげの中での出来事と捉えていけるかどうか―でしょうか。

2015年11月23日月曜日

一瞬。

昨日の生神金光大神大祭でのこと。
ご参列いただいた先生方が多く、私は祭事係の御用をさせていただいてました。

祭主のマイクの音量を調整しようと、音響設備の所へ行きました。
すると、いつも音響の御用をお願いしている方が一生懸命ご祈念をされていました。

後で聞いた話なのですが、電子ピアノのコンセントの調子が悪く、
ビニールテープで巻き付けて…の状況だったそうです。
その方は、祭典中の歌の場面で、電子ピアノがきちんと鳴るようにご祈念されていました。

その一瞬に音が出るかどうか。
その心配を抱えて、ご祈念をしつつ、祭典に臨まれていました。

改めて、祭典の一瞬一瞬が大切な時間であり、
その空間を共有できたことが、とてつもなく有難いと感じました。
そういった場面に出会えたこと、
後で聞いて分かったとしても、御用としての心構えを教えていただいたように思います。