とりわけ間違えた時に使用する修正テープはまっすぐ引けますし、
すぐに上から書けるので重宝しています。
もちろん、細かな修正にはペン先の細い修正ペンが便利です。
間違えた部分によって使い分けをしています。
新春に見たテレビ番組で、
ある漫画家が修正ペンを巧みに使って漫画を完成させているシーンがありました。
その漫画家さん曰く、「修正ペンで描いている部分もある」と。
漫画は鉛筆で下書きなどをして、ペン入れをして完成となります。
ペン入れとは、インクをGペンなどで描き入れる作業です。
ここで作品に命を吹き込むことになります。
しかしながら、その漫画家さんは修正ペンの凸凹や滲みをも利用して
線や円を描いていくそうです。
私は目からウロコが落ちる思いでした。
それは、修正する箇所というのは間違えた部分であり、
隠したいことでもあると感じていたからです。
修正ペンで描くという発想はありませんでした。
すると、これまでの自分がボールペンと修正ペンとで扱いを
別にしてしまっていたことに気づきました。
修正ペンを使う時は「あぁ、また間違えた」と、
イライラと共に使うことが多く、
忙しい時などは使った後の扱いもヒドイもので(苦笑)
そんなモノに対しての自分の気持ちに気づかされました。
修正ペン自身は常におそるおそる登場しているのではないか―
なんてことも頭の中でちらつきました。
使い手次第で意味合いが変わってきます。
漫画家が描き直してきた原稿の凸凹。
そこから出会うべき直線や曲線は、ひと味違ったものになります。
修正箇所が乾かずにできた滲みも武器になるのです。
もちろん、原稿に描き入れる前の準備や努力があってのことですが、
行き着いた間違えはただの間違えではなく、
そこからの閃きからアイデアが生まれてくることもあります。
間違えたことを単に「教訓」ということでだけでなく、
その奥行きや広がりを見ていきたい―
そう感じる、今年の幕開けです。
語弊があるかも知れませんが、
信心の使い手としては、おかげの中での出来事と捉えていけるかどうか―でしょうか。
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