2016年11月20日日曜日

10年。

1週間後、開教110年祭を迎えます。
今は準備に大忙しです。

ふと、10年間どうだったかと思い返します。
とりわけ、10年という事柄にあたって、
教会と自分との間柄がどうなっているか、
どうなってきているかを考えます。

会社、学校、家庭。
親子や夫婦。

事柄に接して、その間柄がどうなってきているか。
関係性が馴染んできているか。

夢や立場から濃くなったり薄くなったり。
その濃淡も、おかげの中での出来事でしょうか。

出来ること、出来ていくことを眺めつつ、
取り組んでいきたいです。

2016年11月3日木曜日

逃げ方。

「逃げるは恥だが役に立つ」
今クール人気のドラマです。

ハンガリーの諺(ことわざ)だそうです。

意味については諸説あるようですが

時には逃げたっていい。
逃げた結果、見えてくるものもあるし、
勝てるところで勝負しよう。

そんな意味らしいです。

テレビのニュースを見ていると
「逃げることはできなかったのだろうか」
と思うことがあります。

また、「逃げる」以外の表現で
新しい見方や選択肢として
考える余地はなかっただろうか、と
感じることもあります。

自分が輝けたり、
前向きに努力できたり。
そんな可能性があって、
チャレンジして欲しい。
「チャンスを逃した」ってことにならないように。

逃げ方や逃がし方。
ストレスに向き合う上で、
大切なワードのようにも思います。


2016年10月25日火曜日

秋になって。

昨日は渋川に行ってきました。

今朝は肌寒い前橋ですが、
昨日の渋川は、紅葉が進んでいました。
秋が深まっていくようですが、
今週はまた暑い日があるようで、
体調管理が難しい、今日この頃です。

秋となって、
木々たちが動きを見せています。
私たちの動きはどうでしょうか。

2016年10月13日木曜日

進捗率。

立ち止まらずに、
進めなきゃいけないこと。

そのままにせずに、
総括しておかなければならないこと。

どちらにせよ、
「動き」は続くように思います。

取り残されたとしても、
前を向かなくてはならなくて。

投げやり、というわけではないけれど、
そこに留まれないことの方が
世の中、多いように感じます。

そうとして。
流れの中にあって、
進み具合、捗り具合、
自分自身を見つめていけるような、
そんな心持ちを大切にしていきたいです。

2016年9月30日金曜日

ことだま。

先日、とてもいい話だったと言われたことがあります。
言われないこともあります(苦笑)

自分が話したことが、思いの外、伝わって?

不思議なことで、そこまで話せたとは思っていないのです。

自分の手から、と言いますか、
口から出た言葉が広がっていったようでして。

自分は話が上手とはとても思えません。
たまたま、話し手と聞き手がマッチしたようなことだと思います。

言霊(ことだま)とは、よく言ったもので。
無意識に、口から出た言葉に、
何かしら祈りのようなものがあると、広がっていくようです。

それは発信する人、受信する人。
それぞれの、相互作用だと思います。

今回のような経験がより出来るように。
テクニックを磨くことも大切ですが、
何か、無心のような境地を大切にもしていきたいです。

2016年9月7日水曜日

安心と安全を。

台風による大雨により、各地で被害が出ています。

亡くなられた方々の霊の立ち行きを、
避難生活を送る方々の安心と、
復旧作業に当たる方々の安全をお祈り申し上げます。

また、日本の食を支える北海道の農業にも、
大きな被害が出ているようです。

先ずは二次災害が出ませんように。
どうか気をつけてお過ごしいただきたいです。

2016年7月31日日曜日

梅雨明けとなって。

例年よりも遅い梅雨明けとなったそうです。
いよいよ夏本番、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

境内に池がありまして、格好の水飲み場で、
いろんな鳥が水を欲してやってきます。
このところ、境内にキジバトのつがいが現れます。
どうやら今年も巣を作る場所に選んでくれたようです。

キジバトは近づいてもなかなか逃げなくて、様子を伺っているようです。
こちらが玄関に入るのに気を遣うようです(苦笑)

ちょっと脅かしてしまったのか、慌てて飛び立ったことがありました。
少し時間が経って境内に目をやると、抜けた羽がちょっとずつ動いています。
見ると蟻たちが運んでいました。
蟻の巣の入り口まで運ぶ1匹。
巣の中へどうのように運ぶのだろうか気になりましたが、
暑い日差しに見届ける間もなく、家の中へ戻りました。

暑い夏。
動物たちはそれぞれに活動しています。
時に、水のお世話になり、日陰のお世話になって、
また、その活動が循環していきます。

クーラーや扇風機のお世話になる夏。
それがまた循環していく働きとなっていくよう、
信心生活をともどもに進めてまいりたいと願っております。


2016年6月3日金曜日

六月。

初夏よりも、夏を思わせる五月の半ばを過ぎ、
いよいよ六月を迎えました。
今年はだんだんと夏に移行していくのでしょうか。

さて、毎月発行している教会報があります。
月末月初はパソコンとにらめっこなのですが。

現在使用しているパソコンをWindows10にバージョンアップさせたところ…
内蔵のカードリーダーがSDカードを認識しなくなりました。
画像が読み込めないわけです。
インターネットで調べると似たようなことを質問している方も多いようです。
外付けカードリーダーを買わなくてはかなぁ…と感じております。
そうとして、これまでパソコンのお世話になって、
教会報が作成できていたことを、前提としていかなくてはいけませんです。

さてさて、1年の折り返しとなる六月。
上半年の御礼を重ねてまいりたいと願っております。

2016年5月3日火曜日

ゴールデンウィーク。

熊本の被災地では復興に向けて、
ボランティア活動も始まりました。
このゴールデンウィークを利用して、という方も多いと思います。

また、自分へのご褒美に、家族に会いに、仲間と共に。
それぞれ予定を立ててのこともあるでしょう。

九州全体の宿泊予約のキャンセルが50万件以上とのこと。
やむを得ない部分もあります。

また、自粛ということについて、いろいろと議論もありました。
私も考えさせられます。
楽しんでいてよいのだろうかという気持ちになります。


被災地への祈りを込めて、
今目の前にあることに真摯に取り組ませていただく。

それが先ず自分にできることであるかな、と感じます。
自分として、整えていく。
しっかり祈れるように、支援できるように。

先ず自分にできることを、身近なところから
取り組ませていただきたいと思っています。

2016年4月16日土曜日

熊本地震。

平成28年熊本地震で被災された方々に、心よりご祈念申し上げます。



亡くなられた方々の御霊のお道立てを

被災された方々の心身の健康を

救命救助に、復旧作業にあたる方々の安全を


北東へ延びる震源地が収まりますように

大雨による二次災害の影響が出ませんように

支援物資が行き渡りますように

2016年2月14日日曜日

マネジメント。

さて、私は最近「六秒」というものを意識しています。

あるテレビ番組で元サッカー選手の前園さんが
「アンガーマネジメント」というものを紹介されたことがありました。
アンガーは怒りを指します。
その基本的な考えとして「怒りは最初の六秒間」というものがあります。
怒りが芽生えたとしても、六秒間我慢すると落ち着いてくるものらしいです。
ですので、カチンと来た時に、その六秒間をどう過ごすかに目を向けます。
「今、怒りが出ている。六秒間様子を見てみよう」と
冷静に自分を眺めてみる―事象を分析してみると、
また別の思考が生まれてくるようです。

人間は感情の動物と言われていますし、
喜怒哀楽は人間に必要な感情です。
怒りや哀しみはなるべく避けたいものですが、
同時に人間らしさを形成するものでもあります。
感情が動くのはしょうがないことです。

アンガーマネジメントでは、怒りは怒りとして、
その後をどう対処するかに目を向けています。
その怒りに自分が出会った時での六秒間。

私はこの「六秒」を「神様に心を向ける時間としてみたらどうだろうか」
というふうに捉えて、現在進行形で取り組んでいて、実験の真っ最中です。

 衝動に駆られることがあります。そんな時こそ、より神様を意識する。
「神様から六秒間の猶予をいただいているんだ」と考える。
先ず、心の中に神様の働きを受け取ろうとする前段階での態勢を考える。
そしてバランスが崩れているわけですから、次に体勢づくりをする。
物事への初動として二段階、二段構えが必要ではないかと思います。

2016年2月2日火曜日

大きく。

最近ある言葉を知りました。

大根はいびきをかいて育ち、白菜はあぐらをかいて育つ

この言葉はいつ、誰が言い出したかは分かってはいません。

ただ、著名な詩人である高村光太郎さんの
『ブランデンブルク』という詩にある

「三畝のはたけに草は生えても
 大根はいびきをかいて育ち
 葱白菜に日はけむり
 権現南蛮の実が赤い。

という部分が変化してのもの、みたいです。

ちなみにブランデンブルクはバッハの協奏曲を指します。
高村光太郎さんがブランデンブルク協奏曲を聴く中で、
情景を思い浮かべての詩です。

畑に草は生えても、大根はいびきをかいて、白菜はあぐらをかいて育っていく。

雑念に苛まれますが、願い手、祈り手として、
どこを捉えさせていただくべきか。
事柄を通して大きく育つもの―見逃さないようにしていきたいものです。

2016年1月4日月曜日

修正ペン。

 最近は便利な文房具が増えました。
とりわけ間違えた時に使用する修正テープはまっすぐ引けますし、
すぐに上から書けるので重宝しています。
もちろん、細かな修正にはペン先の細い修正ペンが便利です。
間違えた部分によって使い分けをしています。

 新春に見たテレビ番組で、
ある漫画家が修正ペンを巧みに使って漫画を完成させているシーンがありました。
その漫画家さん曰く、「修正ペンで描いている部分もある」と。
漫画は鉛筆で下書きなどをして、ペン入れをして完成となります。
ペン入れとは、インクをGペンなどで描き入れる作業です。
ここで作品に命を吹き込むことになります。
しかしながら、その漫画家さんは修正ペンの凸凹や滲みをも利用して
線や円を描いていくそうです。
私は目からウロコが落ちる思いでした。
それは、修正する箇所というのは間違えた部分であり、
隠したいことでもあると感じていたからです。
修正ペンで描くという発想はありませんでした。

 すると、これまでの自分がボールペンと修正ペンとで扱いを
別にしてしまっていたことに気づきました。
修正ペンを使う時は「あぁ、また間違えた」と、
イライラと共に使うことが多く、
忙しい時などは使った後の扱いもヒドイもので(苦笑)
そんなモノに対しての自分の気持ちに気づかされました。
修正ペン自身は常におそるおそる登場しているのではないか―
なんてことも頭の中でちらつきました。

 使い手次第で意味合いが変わってきます。
漫画家が描き直してきた原稿の凸凹。
そこから出会うべき直線や曲線は、ひと味違ったものになります。
修正箇所が乾かずにできた滲みも武器になるのです。
もちろん、原稿に描き入れる前の準備や努力があってのことですが、
行き着いた間違えはただの間違えではなく、
そこからの閃きからアイデアが生まれてくることもあります。

 間違えたことを単に「教訓」ということでだけでなく、
その奥行きや広がりを見ていきたい―
そう感じる、今年の幕開けです。

語弊があるかも知れませんが、
信心の使い手としては、おかげの中での出来事と捉えていけるかどうか―でしょうか。