2016年1月4日月曜日

修正ペン。

 最近は便利な文房具が増えました。
とりわけ間違えた時に使用する修正テープはまっすぐ引けますし、
すぐに上から書けるので重宝しています。
もちろん、細かな修正にはペン先の細い修正ペンが便利です。
間違えた部分によって使い分けをしています。

 新春に見たテレビ番組で、
ある漫画家が修正ペンを巧みに使って漫画を完成させているシーンがありました。
その漫画家さん曰く、「修正ペンで描いている部分もある」と。
漫画は鉛筆で下書きなどをして、ペン入れをして完成となります。
ペン入れとは、インクをGペンなどで描き入れる作業です。
ここで作品に命を吹き込むことになります。
しかしながら、その漫画家さんは修正ペンの凸凹や滲みをも利用して
線や円を描いていくそうです。
私は目からウロコが落ちる思いでした。
それは、修正する箇所というのは間違えた部分であり、
隠したいことでもあると感じていたからです。
修正ペンで描くという発想はありませんでした。

 すると、これまでの自分がボールペンと修正ペンとで扱いを
別にしてしまっていたことに気づきました。
修正ペンを使う時は「あぁ、また間違えた」と、
イライラと共に使うことが多く、
忙しい時などは使った後の扱いもヒドイもので(苦笑)
そんなモノに対しての自分の気持ちに気づかされました。
修正ペン自身は常におそるおそる登場しているのではないか―
なんてことも頭の中でちらつきました。

 使い手次第で意味合いが変わってきます。
漫画家が描き直してきた原稿の凸凹。
そこから出会うべき直線や曲線は、ひと味違ったものになります。
修正箇所が乾かずにできた滲みも武器になるのです。
もちろん、原稿に描き入れる前の準備や努力があってのことですが、
行き着いた間違えはただの間違えではなく、
そこからの閃きからアイデアが生まれてくることもあります。

 間違えたことを単に「教訓」ということでだけでなく、
その奥行きや広がりを見ていきたい―
そう感じる、今年の幕開けです。

語弊があるかも知れませんが、
信心の使い手としては、おかげの中での出来事と捉えていけるかどうか―でしょうか。